[212] 栗鼠と木の実 Mori@管理人 2005/01/16 (Sun) 16:32 あらゆる息をするものが傲慢であるが如く−そして息をしないものも、それなりにそうであるが如く−栗鼠は木の実を捉え、口の間に弄び、噛み砕かんとした。 「お前はもはや私のものなのだ。いやがうえでも総てをさらけ出さざるえないのだ」 栗鼠はもごもごと、口の中の木の実に言い放ったものである。胸と尾と、自尊心三つながら見事にそらして。 木の実は栗鼠に答えた。それら草と深遠の兄弟であるものなりの、断固として冷然たるやり方で見事に答えた。すなわち、栗鼠の喉に落ち込み、その息の根を止めたのである。 「望むとおり、私が私だと思う総てを見せてやろう。私が私である限りはだが。」 栗鼠の骸を糧にして、木の実は育つ。 風に逆らい、葉の牙を剥き出し、天に向かって吠え猛りつつ。伸び上がり、やがて木と呼ばれ、汝は大木なりと名指された。 「いいや。私は栗鼠だよ」、と木の実は答えた。変わる事無く傲慢に。さやさやと陽射しに囁きながら、かつての同輩たちに涼やかな日陰を供しはしたが、もはや尾をそらす事は無かった。*************栗鼠は木の実で、木の実は栗鼠で。 いつの日にか、枝に実った栗鼠を、木の実が齧るのだろう。*************動植物のどちらを食べるのがより殺さないか、というのをつらつら考えてみると、実はどちらも同じなんですよ。だからと言って、食べないのは意味が無いんですが。 システムの違いがあって、痛みこそ植物のほうが感じにくい存在であるらしいのは言われていますが、それは動物とは単に違う「痛覚」を持っているということだけで。結局はむやみには食べられたいと思っているわけではないんですよ。植物というのは。だから、植物は程度の違いはあれ、動物が近づくと特殊な成分を出して空気中にはなっています。緊張、警戒するわけです。時には、自分がその「敵意」によって枯れてしまうほど、怯えもする。反面、実の部分は食べられちゃってもいいからと、種の部分を鳥や昆虫に運んでもらったりと、植物は彼らなりのやり方で移動もしている。動物を滋養にもする(笑)動物というのは実は彼らの乗り物です。 結局大事なのは、お互いを食いすぎないこと、ということなのだと思うのですが。とりあえず持っている本を読み直すことにして「マーシャン・インカ」(ワトソン著)やラブクラフトあたりを読んでいます。 「マーシャン・インカ」・・・は、意識変革の物語ですけれど。それがある日突然、少数グループで起こった場合の混乱は凄まじいものがある。視点を共有し得ないから、そもそも話し合えない。 クトゥルー神話大系は、この間日記でちょろっと書いたのがきっかけで熱が戻ったと言うか再燃中です。その一つである「ウルタールの猫」は小品。ですが、猫が好きな人にはたまらないものがある。でも万人には(妙に信心深過ぎたり、敬虔なつもりの人には決して)薦めないですけど。 というか、嵌まる人しか嵌まりそうに無い気が?アラン・ポーとかが好きならもしかしたら、というくらいのものです。 とはいっても、根強いファンを各地に持っているのがクトゥルー神話大系なので、http://www.cthulhuforpresident.com/ なるサイトがあったり、邪神占いというのも見かけましたけど。結構色々あるみたいで。最近身内の命日だったので墓参りに。 震災とは直接関係が無いのですが、この時期になるとどうしてもその話題とかさなるので。生まれたもののことを考えたくなる。17日に生まれた人というと、モハメド・アリ やベンジャミン・フランクリン がいるようです。 Tweet Share
木の実は栗鼠に答えた。それら草と深遠の兄弟であるものなりの、断固として冷然たるやり方で見事に答えた。すなわち、栗鼠の喉に落ち込み、その息の根を止めたのである。 「望むとおり、私が私だと思う総てを見せてやろう。私が私である限りはだが。」 栗鼠の骸を糧にして、木の実は育つ。
風に逆らい、葉の牙を剥き出し、天に向かって吠え猛りつつ。伸び上がり、やがて木と呼ばれ、汝は大木なりと名指された。 「いいや。私は栗鼠だよ」、と木の実は答えた。変わる事無く傲慢に。さやさやと陽射しに囁きながら、かつての同輩たちに涼やかな日陰を供しはしたが、もはや尾をそらす事は無かった。*************栗鼠は木の実で、木の実は栗鼠で。
いつの日にか、枝に実った栗鼠を、木の実が齧るのだろう。*************動植物のどちらを食べるのがより殺さないか、というのをつらつら考えてみると、実はどちらも同じなんですよ。だからと言って、食べないのは意味が無いんですが。
システムの違いがあって、痛みこそ植物のほうが感じにくい存在であるらしいのは言われていますが、それは動物とは単に違う「痛覚」を持っているということだけで。結局はむやみには食べられたいと思っているわけではないんですよ。植物というのは。だから、植物は程度の違いはあれ、動物が近づくと特殊な成分を出して空気中にはなっています。緊張、警戒するわけです。時には、自分がその「敵意」によって枯れてしまうほど、怯えもする。反面、実の部分は食べられちゃってもいいからと、種の部分を鳥や昆虫に運んでもらったりと、植物は彼らなりのやり方で移動もしている。動物を滋養にもする(笑)動物というのは実は彼らの乗り物です。
結局大事なのは、お互いを食いすぎないこと、ということなのだと思うのですが。とりあえず持っている本を読み直すことにして「マーシャン・インカ」(ワトソン著)やラブクラフトあたりを読んでいます。
「マーシャン・インカ」・・・は、意識変革の物語ですけれど。それがある日突然、少数グループで起こった場合の混乱は凄まじいものがある。視点を共有し得ないから、そもそも話し合えない。
クトゥルー神話大系は、この間日記でちょろっと書いたのがきっかけで熱が戻ったと言うか再燃中です。その一つである「ウルタールの猫」は小品。ですが、猫が好きな人にはたまらないものがある。でも万人には(妙に信心深過ぎたり、敬虔なつもりの人には決して)薦めないですけど。
というか、嵌まる人しか嵌まりそうに無い気が?アラン・ポーとかが好きならもしかしたら、というくらいのものです。
とはいっても、根強いファンを各地に持っているのがクトゥルー神話大系なので、http://www.cthulhuforpresident.com/ なるサイトがあったり、邪神占いというのも見かけましたけど。結構色々あるみたいで。最近身内の命日だったので墓参りに。
震災とは直接関係が無いのですが、この時期になるとどうしてもその話題とかさなるので。生まれたもののことを考えたくなる。17日に生まれた人というと、モハメド・アリ やベンジャミン・フランクリン がいるようです。