[213] 虎女 - Tiger Rag Mori@管理人 2005/01/24 (Mon) 01:24 「で?」虎が言う。 にいと笑いながら、女の顔をして、恐ろしくも美しい。 かつてこの顔を見知っていた。 私の妻のそれであった−死んだ女だ。 いまや羅刹女のそれであるもの。私に属するもの。 「虎とは何ぞ、」 息を吸い、答える。 「虎とは野の花ぞ」 「何故に」 「同じく咲くからだ。この世に生え出て、儚く揺れるものだからだ。死したものを喰らい、生ける者を狩り、やがては土に還るからだ」 「だがそれだけが虎か」 「いや、虎とは魚よ」 「何故に」 「同じく泳ぐからだ。世界という涙の海を、溺れるが如くに」 「同じとは」 「なべてのもの。来た如くにしていまだ来たらぬもの」 「それだけか」 「そう、それだけだ。虎とはお前であり、私だ。羅刹にして羅刹女、やがて来るかもしれず来ぬともいえぬもの」 「すでに来ているかも」 「だとしても私はそれを知らない」 「ならば確かに、それは私よ。お前でもある」****************** そして虎は何処へ行く? サンスクリット語のtathagata(タターガタ)の意味は、「真如から来た者」、ようは 如来。覚者Buddha(ブッダ)とほぼ同義。 実際に虎とはなんですか、と聞かれたら、私(森)の場合ですが「世界最大のネコ科動物で、ライオンとガチンコできる強くてきれいなにゃんにゃんで、はっきり言ってむっちゃ好きやねん、です」という回答がかえることでしょう。・・・ええ。ちなみに(トラは)クマともガチンコできます。知人がタイで津波の時そちらに行っていた事を、連絡してきていたので(本人は無事)たまげるしかなく。やはり関連のあるものからでないと、こういった事の感触はつかみにくいのだとつくづく思いますが。小説家のアーサー・C・クラーク氏のサイト等を見て、TVで報道を見ているよりそちらを生々しく感じたのは、やはり自分に引き寄せて考えやすいからなのかも知れません。(小説の話をすると、クラーク氏の作品では「幼年期の終わり」がやはり好きです。一応興味のある方向けに。 http://www.clarkefoundation.org/ ) Tweet Share △
[212] 栗鼠と木の実 Mori@管理人 2005/01/16 (Sun) 16:32 あらゆる息をするものが傲慢であるが如く−そして息をしないものも、それなりにそうであるが如く−栗鼠は木の実を捉え、口の間に弄び、噛み砕かんとした。 「お前はもはや私のものなのだ。いやがうえでも総てをさらけ出さざるえないのだ」 栗鼠はもごもごと、口の中の木の実に言い放ったものである。胸と尾と、自尊心三つながら見事にそらして。 木の実は栗鼠に答えた。それら草と深遠の兄弟であるものなりの、断固として冷然たるやり方で見事に答えた。すなわち、栗鼠の喉に落ち込み、その息の根を止めたのである。 「望むとおり、私が私だと思う総てを見せてやろう。私が私である限りはだが。」 栗鼠の骸を糧にして、木の実は育つ。 風に逆らい、葉の牙を剥き出し、天に向かって吠え猛りつつ。伸び上がり、やがて木と呼ばれ、汝は大木なりと名指された。 「いいや。私は栗鼠だよ」、と木の実は答えた。変わる事無く傲慢に。さやさやと陽射しに囁きながら、かつての同輩たちに涼やかな日陰を供しはしたが、もはや尾をそらす事は無かった。*************栗鼠は木の実で、木の実は栗鼠で。 いつの日にか、枝に実った栗鼠を、木の実が齧るのだろう。*************動植物のどちらを食べるのがより殺さないか、というのをつらつら考えてみると、実はどちらも同じなんですよ。だからと言って、食べないのは意味が無いんですが。 システムの違いがあって、痛みこそ植物のほうが感じにくい存在であるらしいのは言われていますが、それは動物とは単に違う「痛覚」を持っているということだけで。結局はむやみには食べられたいと思っているわけではないんですよ。植物というのは。だから、植物は程度の違いはあれ、動物が近づくと特殊な成分を出して空気中にはなっています。緊張、警戒するわけです。時には、自分がその「敵意」によって枯れてしまうほど、怯えもする。反面、実の部分は食べられちゃってもいいからと、種の部分を鳥や昆虫に運んでもらったりと、植物は彼らなりのやり方で移動もしている。動物を滋養にもする(笑)動物というのは実は彼らの乗り物です。 結局大事なのは、お互いを食いすぎないこと、ということなのだと思うのですが。とりあえず持っている本を読み直すことにして「マーシャン・インカ」(ワトソン著)やラブクラフトあたりを読んでいます。 「マーシャン・インカ」・・・は、意識変革の物語ですけれど。それがある日突然、少数グループで起こった場合の混乱は凄まじいものがある。視点を共有し得ないから、そもそも話し合えない。 クトゥルー神話大系は、この間日記でちょろっと書いたのがきっかけで熱が戻ったと言うか再燃中です。その一つである「ウルタールの猫」は小品。ですが、猫が好きな人にはたまらないものがある。でも万人には(妙に信心深過ぎたり、敬虔なつもりの人には決して)薦めないですけど。 というか、嵌まる人しか嵌まりそうに無い気が?アラン・ポーとかが好きならもしかしたら、というくらいのものです。 とはいっても、根強いファンを各地に持っているのがクトゥルー神話大系なので、http://www.cthulhuforpresident.com/ なるサイトがあったり、邪神占いというのも見かけましたけど。結構色々あるみたいで。最近身内の命日だったので墓参りに。 震災とは直接関係が無いのですが、この時期になるとどうしてもその話題とかさなるので。生まれたもののことを考えたくなる。17日に生まれた人というと、モハメド・アリ やベンジャミン・フランクリン がいるようです。 Tweet Share △
にいと笑いながら、女の顔をして、恐ろしくも美しい。
かつてこの顔を見知っていた。
私の妻のそれであった−死んだ女だ。
いまや羅刹女のそれであるもの。私に属するもの。 「虎とは何ぞ、」 息を吸い、答える。 「虎とは野の花ぞ」
「何故に」
「同じく咲くからだ。この世に生え出て、儚く揺れるものだからだ。死したものを喰らい、生ける者を狩り、やがては土に還るからだ」
「だがそれだけが虎か」
「いや、虎とは魚よ」
「何故に」
「同じく泳ぐからだ。世界という涙の海を、溺れるが如くに」
「同じとは」
「なべてのもの。来た如くにしていまだ来たらぬもの」
「それだけか」
「そう、それだけだ。虎とはお前であり、私だ。羅刹にして羅刹女、やがて来るかもしれず来ぬともいえぬもの」
「すでに来ているかも」
「だとしても私はそれを知らない」
「ならば確かに、それは私よ。お前でもある」******************
そして虎は何処へ行く?
サンスクリット語のtathagata(タターガタ)の意味は、「真如から来た者」、ようは 如来。覚者Buddha(ブッダ)とほぼ同義。 実際に虎とはなんですか、と聞かれたら、私(森)の場合ですが「世界最大のネコ科動物で、ライオンとガチンコできる強くてきれいなにゃんにゃんで、はっきり言ってむっちゃ好きやねん、です」という回答がかえることでしょう。・・・ええ。ちなみに(トラは)クマともガチンコできます。知人がタイで津波の時そちらに行っていた事を、連絡してきていたので(本人は無事)たまげるしかなく。やはり関連のあるものからでないと、こういった事の感触はつかみにくいのだとつくづく思いますが。小説家のアーサー・C・クラーク氏のサイト等を見て、TVで報道を見ているよりそちらを生々しく感じたのは、やはり自分に引き寄せて考えやすいからなのかも知れません。(小説の話をすると、クラーク氏の作品では「幼年期の終わり」がやはり好きです。一応興味のある方向けに。 http://www.clarkefoundation.org/ )